ライフストーリー 53「いつ死んでもいいように」
池や湖はとっても苦手です。動きがある水の、川や海がいいな。
仕事をしながら、キネシオロジーの講座に時折行きつつ、の日々。
お金もたまってきたし、東京に戻ってからは実家に暮らしていたので、久しぶりに一人暮らししてみようかなー。
と思い、職場近くのアパートに引っ越した。
古めだけどバストイレ別、ある私立学園の地域で、人の雰囲気もいい。
物は必要最低限に厳選。衣類は押入れに桐の収納を入れ、部屋にある家具はダッシュボードと日本製の座卓のみ。
調理器具も最低限の数、鍋までとにかく厳選した。
そこに引っ越してどれくらいだったかな…?
職場にいたとき、突然大きな揺れが襲った。2011年3月11日の地震だった。
施設は大きな法人なので建物の耐震もしっかりしている。その1階が職場のデイサービスだったが、1階でさえかなりの揺れだった。
非常勤さんが、特浴(横になって入る形のお風呂)のお湯がジャポンじゃぽん揺れ、半分位なくなってしまったと言っていた。
利用者さんは60代から90代の方たちだったが、みんな落ち着いていた。
ある認知症の人は揺れてからすぐ玄関に走って行こうとしたと聞いたが、総じて落ち着いていて、事故もなかった。
そして利用者さんを送迎。しかし、利用者さんのご家族は帰宅出来ない、連絡がつかない、という状態の方が数名いた。
その方々と、フロアで一緒に過ごしていると、非常用発電が数時間で切れ、真っ暗となった。
でも、皆さんは
「ああー、戦争の時を思い出すわねえ〜。」
とか言って、全然平気だった。
ロウソクを灯しながら、だんだん冷えてくる室内にお話をしながら居た。
施設の2階より上の階は、特別養護老人ホームとなっており、エレベーターも止まっていたので、
食事を職員で階段を上り下りし手分けして運んだりしていた。食事介助などは、どうしていたんだろう…と思う。
7時過ぎだったかもっと過ぎていたか、利用者さんのご家族と連絡が取れ、皆さん無事に帰宅。
私たち職員も帰ることが出来た。
一人暮らしのアパートに帰るのは怖くて実家にそのまま帰宅した。
後日アパートに帰ると、冷蔵庫がものすごく動いていて、びっくりした。
それでも物が少なかったので、変化はそれだけだった。
その年は、地震の2ヶ月前の1月に母方の祖父が亡くなったという出来事があった。
90過ぎた、戦争の前線へ行った経験のある人で。なんでも出来て頭が良く、先手を打って行動できる人だった。
地震の後は父と母が、
「おじいさんなら、なんて言ったかね。」
と話していたっけ。
葬式のため長野の母の実家へ行き、小さくなった祖父の亡骸を見た。
うちは、父方の祖父母が私の父が小学生の頃に2人とも病気で亡くなっており、
母方の祖母は数年前に亡くなっていたので、私にとって最後に残った祖父母が亡くなったということになる。
妹の3人の子ども、つまり私にとっての甥っ子たちは、一番下の子はよくわからなくて祖父の亡骸をいたずらっぽくそっと触ろうとしたり。
二番目の子はひとり玄関で泣いていた。なんだかわからないけど、悲しかったんだそう。一番上の子は、神妙に。
色々な様子を見て、うまく言葉に出来ないが、あの葬式はわたしにとってとても意義があって。
一つ、自分たちの歴史の節目になったような感じ。
そしてその2ヶ月後に地震が来た。
もう、いつ死ぬかわからないんだよなあ。好きな事を本当にしよう。
と思った。
では何がしたいのか?と言うと、前の職場の経験から感じていて、この職場ではっきり定まったこと、
(自分はもっと年寄りとじっくり深く関わりたい。)
これが明確になっていた。
なので、近所付き合いが深く人間関係の濃い地域は、人口の少ない地域だろう。そこなら年寄りとじっくり関われる。
と思い、まずは限界集落をネットで検索。
長野県泰阜村というところに老人福祉の理念も実践も素晴らしいところがあった。
ここに見学に行こう!と、問い合わせをしているうちに、
東京都内で人口約300人の村(離島)の社会福祉協議会が求人を出していると知った。
まったく知らない島だが、人口の少ない点が一発で決め手になった。
そして実は、以前からなぜか
(海でたゆたいたい)
という願望があったので海への魅力にも惹きつけられた。
全身で水を感じると、なんか感覚的に違ってくるんじゃないかな?という、わたしの推測がありました。
浜松町駅近くの竹芝桟橋から、夜10時過ぎ出航の船に乗り、面接へ行った。
早朝6時に島へ着き、面接まで2時間近く時間があったっけ。
宿のご飯処に居させてもらい、朝食をいただき、面接へ。
その後、島を車で案内していただくと、切り立つ岩山と緑の深い山々は長野を彷彿とさせ、これが東京かとびっくりした。
そして後日採用通知をもらい、村へ行くことが決まった。
しかし採用が決まってから、なかなか村へ来てOK〜という連絡がなかった。
これには村ならではの理由があった。村では住居が本当に不足しているのだ。(現在もまったく同様です。)
もしわたしが行っても村での住居が決まっていなかったため、採用通知がきてから行くまでかなり遅くなった。
あまりに遅いので、別のところを受けようかなーと思い始めた頃、
「家が決まりました。」
という連絡をもらい、島へ行くこととなった。
2012年の7月末だった。
つづく・・・