ライフストーリー 48〜やっと…!子宮内膜症。
台風で壊れたさんばし。溝をのぞいて見ると、とつぜん波が上がってくるので、ちと怖い。
大好きな学童保育を、うつで退職してからはゆっくり過ごし、いつの間にか元通りの私になっていた。
つくづく思うのは、回復のスイッチが入ったのは明らかに、病院の処方でなく父の暖かい手が私の頭を包んだ時だなということ。
あれは、一体どういうこと(作用?)だったんだろう…?
と不思議に思って、今までは言葉にできなかった。
でもいまは、非暴力コミュニケーション(NVC)や、コネクションプラクティスを学び始めているので、言語化出来る。
父(と母)がわたしを思う、心からの思いが父の手を通して私へ伝わった。それが私を力づけた。
という、シンプルだけど、すごくパワフルなこと。
親の思いや愛する気持ちが、わたしを変化させた。
こう書くと、なんだスピリチュアルかい〜と思われる方もいるかもしれないが、
心臓は脳よりもパワフルだということが、科学的にもわかって来ている。
(この表現は正確ではないが、私はそう捉えています。ライフストーリー シリーズが終わったら、今後その点について随時書きます。)
で、回復してからは、やっぱり年寄りの現場に行きたくなった。
まずは手慣らしとして、稼働時間が短いホームヘルパーがいいと考え、ベネッセのホームヘルパー部門へ就職。
ここがまた、素晴らしい会社というかシステムというか、上司も現場をよく知っている方々で信頼でき、社員向けの教育機会もあり、とても良いところだった!
ヘルパーに入るとお客様と1対1で対応できるが、なんせ限られた時間。それでもお客様とは、たくさんお話をして過ごした。
わたしの支所は23区内でも高所得地域だった。つくづく感じたのは、(いくらお金があっても全然楽しそうじゃない方が沢山いるなあ…)
ということ。二世帯住宅で一緒に住んでいても子ども家族とは一切交流がなかったり、ヘルパーとしか他人と喋る機会がないなど、ザラにあった。
決して、それが悪いとか言いたいのではない。
ただ、こうした状況は、だれ1人として嬉しくないよなあーーーと心の底から感じていた。
では、どうしたらいいのか??ご近所同士で繋がったりする仕組みがあるといいのだろうか?
いつもあれこれ思っていた。
このベネッセのヘルパー経験から、高齢者福祉の目的は、
「人が最後に欲するもの・残るものは、人とのつながりなんじゃないか?」
という、仮説が出てきた。
それは今はもう、仮説ではなく私の仕事の確信と核心になっている。それはそのあと転職して情報を更新し続けても、ずっと私が持ち続けている確信。
さて1年くらいすると、やはり1日を通し継続して人をみられる施設介護がしたくなって退職した。
今までチームで仕事をしてきたので、1人だけのヘルパーの仕事になると、こういう事があってね!と現場での喜びを、他の職員と共有する事が難しいことも理由だった。
医療法人が開設するデイサービスの立ち上げと運営のため、相談員と介護職兼務の仕事に就いた。ここでも沢山の年寄りと会えて、やりがいがあった。
が、学童保育の時代からわたしは生理の前日になると、七転八倒するような腹痛に見舞われていて。
それは毎月ではなくて、不定期の激痛。でも必ず生理の前日にある。いろいろな病院に行っても、月経困難症という診断で鎮痛剤処方。
ある病院では、
「生理は痛いものですからねえ。」
とDrに言われ(だから普通の痛みじゃないんだよ!)と、あきれて帰宅したりしていた。
そうしているうちに早4年。今までなぜかちょうど!激痛の日は休日に当たっていて、勤務に支障が出なかった。
けれど、いよいよホントにこの激痛はおかしいと思い、当時買ったばかりの牛柄Gateway PCで調べると、もしかして子宮内膜症では?と思い当たる。
しかし、信じるのは医者より「客観的な当事者=客観的な患者」が良いなーと思い、
患者会である「日本子宮内膜症協会」を探して協会が書いた著書を入手。熟読してから病院へ行くと、
「子宮内膜症だと思われます。左卵巣のチョコレート嚢腫があります。」
と、あっさり診断がついた。そしてさっそく、副作用が強い更年期状態を作る「治療法」を提案された。
子宮内膜症協会の著書には、外国では手術が第一選択だが、日本ではアゴニストなど更年期状態を作る選択肢が先に出ており問題だ、というような事が書かれていたので(詳しくはお調べください)、Drに
「手術はできませんか?」
と聞くと
「まずはアゴニストを」
という事だった。(ここはダメだ)と思い、
「ちょっと考えます。(ウソ)」
と伝え早々に病院を出た。家に帰ってから、協会のホットラインへ電話した。
なかなか繋がらなかったが3日目で繋がり、代表のいぬいさんに状況を話し、著書を踏まえた上で疑問をいくつか聞いた。
いぬいさんは、膨大な医療情報をまとめ上げ、ロビー活動もされ著書も残し、協会の仕組みも作られた方。本を読んでいて、(一体この方は何者なんだろう?)と思うほどにたいへん聡明な方だった。
電話相談で印象に残っているのは、
「自分の身体のことなのに、調べもしないで治してもらおうと、他人に丸投げ任せきりの人が多すぎる。」
正確な表現ではないが、そういう意味のことを、とってもとっても嘆いておられたこと。
そして、内膜症の腹腔鏡オペをたくさんしている専門のK医師と在籍している病院名を教えていただいた。
「女性だけど男性みたいな、さっぱりしたドクターよ。」
今はなき?!湯島の小平記念東京日立病院という、日立製作所が持つ病院だった。
さっそく受診。左の卵巣に6センチのチョコレート嚢腫があった。
私「やっぱり手術ですか?」
K医師「んー、6センチだと切り時だね。」
私「では、お願いします。」
ということで、手術日を決め、立ち上げから関わったデイを退職した。
つづくー。