私の世界観 ライフストーリー 2〜町田市へ引っ越し。
前回の、ライフストーリー〜1 はコチラ。
引っ越しをし、5歳のわたしは保育園に入り、同い年のあーちゃんと出会います。
保育園では、いつも給食を食べるのが遅くて、よくあーちゃんと二人で残って食べていたそうです。なんでだか全く覚えてませんが。小学校の時まで給食でしたが、給食が別に好きでなかったので、あんまり美味しくなかったのかなあ。
(ヒドイ笑。でも、母曰く、「給食の見本を見て、国分寺市の保育園より内容が良くなくてとてもびっくりした。」と言っていたので、あながち外れてないのかも?と。)
あーちゃんのお母さんは、土曜日か日曜日によく私たちを外へ連れて歩いてくれました。保育園の時から小学低学年位までだったかなあ?あーちゃん、あーちゃんの弟とわたしと妹の5人で自然がたくさん残っている、いろいろな所へ歩いて連れて行ってもらいました。時には少し遠出をして渋谷にあった塩とタバコの博物館に行ったり。
思い起こすと、毎回かなりの長距離を歩いており、今考えると驚くのですが、とっても楽しかったことを覚えています。
今ではもう住宅地になって残ってはいませんが、当時は家から少し歩くと、田んぼがあってレンゲが咲いていて。てんとう虫を探して持ち帰って飼ってみたり。
そうそう、わたし、てんとう虫を見つけるのがなぜかものすごく早くて。すぐに何匹も捕まえてました。なんというか…緑の中に色の違う赤のものを、感覚でとらえるんですよね。で、20代になってから、あーちゃんに
「なめが(「なめ」「なめちゃん」があだ名)すぐにてんとう虫見つけるのが、すっごく羨ましかった。」
と言われ、ものすごく驚いて動揺してしまい、
「あれ…あの時あげなかったっけ?」
などと、的外れのごまかし返事をしたのを覚えています。
なぜって、わたしからするとあーちゃんは、とても頭が良くてわたしに対して羨ましいなんて思うと思わなかったので。小さい頃のことですけれども、本当に聞いたときはそうだったのか〜!と衝撃でした。
そしてその時、(いつもわたしは、どうして本当に感じたことを隠してしまうんだろ?なんで変なことを言ってごまかしちゃうんだろう…)とも思ってました。当時、その理由は深堀り出来ていないんですけど、大学に行ってからその要因がやっとわかったのでした。
で、話は戻って。。
一方、両親は、引越し先で以前と同じ販売業の開業を予定していましたが、隣のお店で同種の品を扱っているという理由で開店を反対され、途中から方向転換を余儀なくされました。全く異なる製造販売業をすることとなり、修行先を紹介してもらい、修行ののち、開店することとなります。
当時のことは、両親二人とも本当に懸命だったので記憶がないと言います。「子どもたちは一体どうしていたんだろう?」と。TVで当時の流行歌なども流れると、この時代のことは全く判らない、とよく言っていました。
そんな思い出を聞くたび、人の縁とは本当に不思議なもので、そして自分が求める通りになるものだなあ。とつくづく思うのです。
なぜなら、当初の予定と全く異なり、店舗も一から作り直しのスタートとなってしまった両親の商い。でも、これが実は良かったと思うのです。いえ、ほんとうに大変だったと思いますが、二人の気質からして、ゼロから作っていくことの方が力を発揮できたし、現在も40年以上商いをしていられるのも、この強制的な方向転換があったから。そして、修行先が素晴らしい方で、ひとに恵まれたからと思うのです。
これが、結果として、両親が強く求めていた、家族の安寧を得られた要因だと思うのです。
さてわたしの方は、小学校に上がるまで、妹が聾学校幼稚部に母と通う時には一緒に行ったりしていました。小高い山の上に学校があり、バスを降りて林の中を歩いて学校へ行ったことを思い出します。母からインテグレートという英語の言葉を初めて聞いたのも、この聾学校のプログラムからでした。
プログラムといえば、家のトイレとお風呂場のドアには母が書いた絵が貼ってありました。お風呂に入っている姿と、トイレに座っている姿がかわいく画用紙に書かれていたっけ。聞こえない妹には、いろいろな絵の厚紙カードを使って言葉を教えていたようですが、その絵のカードも母が書いていました。すべてのことに長けている母ですが、絵も上手でした。
今でも忘れられないのは、妹に大変目をかけて下さった聾学校のK先生から頂いた、クリスマスの時の飾り。
ろうそくを灯すと、上には真鍮の天使たちがいて、それが上昇気流で回り出し、チーンチーン♪と優しいベルの音が鳴るもの。いつだったか、ネットで検索してみたら発見できて、とってもとっても嬉しかった。(今年のクリスマスは買おう。)
妹は近くの普通の保育園にも行きながら、聾学校の幼稚部にも通っていました。周りのことも落ち着いてよく見ることが出来、ほかの子の面倒も良くみていたそう。K先生はそんな妹を大事に見て下さった方の一人。
K先生が亡くなった時はご自宅へ皆で会いに行き、そこで父が泣くのを初めて見たのを覚えています。なんというか…びっくりしたというのではないけど、すごく覚えている。
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