ライフストーリー 47〜精神科薬でおもらし
台風で無くなった、桟橋の電灯土台。先に見ゆるは三宅島です。
学童保育の指導員になって。
1年目は、定員である45名の1年生から3年生の子どもたちを観た。
この小学校のまわりは、私が保育園の時には田んぼばかりだった。たくさん咲いていたレンゲを摘んだり、てんとう虫を見つけたりしていたけれど、とっくの昔に田んぼは全部なくなっていて、代わりに住宅が立ち並ぶ地域になっていた。
午後になると、低学年の子は学校から早く帰ってくる。それぞれの子たちが室内や狭い庭で遊ぶ。その内、上級生たちが帰ってくる。宿題や遊びに忙しい。大きい体の子も甘えておんぶをどカッ!としてきたり、泣く子を抱っこしたり、体力も必要だった。
新1年生は、まだまだ保育園児か?というような子もいたが、1〜2年も経つと見違えるように成長していた。新1年生の2人の子が、学校からの帰りが遅いので見に行くと、夢中になって側溝で遊んでいて。なぜ迎えに来たのか理解できていない様子だったり。特に男の子はそういう傾向があった気がする。まだ赤ちゃん、みたいな感じ。
子どもたちは、率直にストレートに感情を出して意見を言ってくるので、それと正面から対峙することも本当に楽しかった。
また、子供達が遊ぶものを工作して用意したりする作業も好きだったので、それも楽しかった。
電車やバスに乗って神社や田んぼなど遊べる所への遠足なども、季節でしていたっけ。
パワー全開の子ども集団をまとめるのは、大声を出すことでも叱ることでもなく、こいつの話は聞かねばならん。という信頼が必要。
子どもたちは、こちらがどの程度本気かということをすぐに感じていたな。
東京に帰ってしばらくのうちは、街中で年寄りの姿を見ては
(あっ!〇〇さん!……イヤイヤ、こんなとこ居ないんだった。)
と、特養にいた年寄りと少しでも姿が似ているひとを見ては思っていた。
それと似たような感じで、今でも子どもたちの名前を思い出せる。集中して見ていると、人ってそういう風になるんだと思う。
子どもの現場と年寄りの現場って、死角を作らないようにみるとか、変化成長を見守るとか企画を作り上げるところとか、似ているところがあった。ま、要は人間相手なので、おんなじなんだと思う。そこにちょっと分野が違う技術がくっつくだけ、なのかなと思う。
本当に面白くて、私は家に帰ってから親との食事でも、今日こんなことがあった等々、学童の話ばかりしていた。24時間、学童に関連することを考えていた気がする。だって面白かったんだもん。
そうこうして楽しく月日が経ったある年。定員45名のところ、学童の入所希望が80名近くになった。そしてほぼ希望数の子どもたちが(正確な数字は覚えてないけど)通所するようになり、建物の中が狭くなった。
事前準備の業務は増え、私はだんだん食欲がなくなっていき、次に、眠りにくくなっていった。
痩せた私を見て、お迎えに来たお母さん方が心配した。
そうこうしていると、目がぐるぐる回るようになったり。
…こりゃ、まずいな。と思い、精神科に行き、自分の状態を話した。
「軽い鬱ですね。」
とDrから言われ、SSRI(抗うつ剤)と睡眠導入剤を処方され、服用するようになった。
仕事がいくら好きでも、仕事と生活を密着させ過ぎると病気になるんだなーと、後になって気づいた。
残念ながら学童は退職、しばらく実家で寝て過ごした。
さあこれが、ほんとうにそこからはひたすら寝てばっかりだった。
ありがたいことに、親はなんにも言わず普通に対応してくれていた。相変わらず食べる量は少なかったけど。
それが何ヶ月続いたのかな〜覚えていないけど。
あるとき父が、寝ている私の頭を両手で包んで、おでこを合わせ、震えながら
「どうしちゃったんだよー。元気になれ。」
みたいなことを言って、去って行ったことがあった。
真実泣けてきた。すごく心配かけてるんだなと感じた。
そして父からの言葉とどっちが先だったかな?前後関係を忘れたけど、導入剤が効き過ぎたのでしょう、なんとおもらしをしたことがあった。
もうびっくり!!速攻で導入剤をやめた。
そして、生理が来なくなった。精神科のDrに言うと、
「あ、薬の作用で生理がなくなるんですよ。だめだった?」
と、めっちゃいとも簡単に言われ、(こりゃダメだっ!!)と思い、抗うつ剤も通院も止めた。
導入剤も抗うつ剤も自己判断で勝手に止め…。
いつの間にか、元のように元気になりました。1年くらいは寝ていたんでしょうかー??
覚えてないので、今度親にも聞いてみようかなあ。
※薬を勝手に止めるのは真似しないでくださいね♪